Nonbite's Fly Fishing Tale

フライフィッシングのページ

≪vol.117≫ 「スーパー名医」が医療を壊す

2009年12月17日

村田幸生  祥伝社新書

ドラマは当然誇張されている

絶対に成功する手術→水戸黄門の印籠

過去に傷をもった医者、アルコール中毒の医者などが主人公に心惹かれて再生する→不良を集めたり、閉じこもっている学生を集めて強いチームを作るのど、一昔前の青春ドラマのよう、ルーキーズ?

べたの王道が注目され、もてはやされる。


フィクションであるはずがそれが現実のものとして考えられている。
だれも(一般の人)はそのことに気付かず、テレビのような医療が当たり前と考える。

報道の在り方も問題
激務の外科医、小児科医、産婦人科医をとりあげ、それが当然、自己犠牲は当然といった風潮

人間はゴール、目的の見えない苦労には耐えられない

日本人はみな白い巨塔以来、医者訴えられドラマの架空の世界にはまっている

このわるいイメージを覆すのは至難の業。

日本人は死について考えようとはしない。むしろ、”老いない“”病気にならない””死なない”ことばかりを考える。
”死””最期”をきちんと考えることは”生の意味”を考えることなのだということに気づいていない。

手術と関係なく、病院外で起こることは、同じ確率で病院内でも起こりえます。たとえば風邪を引きやすい人なら入院中に風邪をひくかもしれません。おうちでよく転倒される方なら、我々も注意しますが、病院でも転倒することはあります。

自分の親だけは特別、一般論は通用しない大きな矛盾

ピンピンころりを望んでいるが、病院では絶対にそんなことはない

老後そのものが「頑張れ!」という親から子へのエールのバトンといった一面がある

人間の死亡率は100%。いわば「人生とは長い長いロスタイム・ライフ」
技術は大事だが、患者さんの最後には、医者は技術者ではなく「ロスタイム・ライフの審判」であればよいのだ。

患者さんの人生の幕引きをその子供たちに見せて、残りの人生を有意義にしよう、という気を起させるようにする。

人生は到着地(結果)ではなく、(大事なのは)旅の途中(過程)なのだ

子供にとっての親の最後は「われわれ残されたものへのメッセージ」になれば理想的だ。
「臨終」だけではなく、それまで生きてきた人生の「過程」もひっくるめてメッセージにならなければならない。

現代の教育システムは「平等」主義、順位をつけない。ひとりひとりが「世界にひとつだけの花」。だが平等社会は不満や嫉妬が渦巻く。平等ではあっても公平ではないからだ。それがいいとは言わないが、自分より上位の人間と思えは不公平も納得できる。
医療資源も平等であっても現実には公平にはならない。

「あと半年しか生きられません」という言い方はせず、必ず「あと半年は元気に頑張れますよ!」とういう、いい感じのロスタイム宣言である。

求められるのは死を受け入れる心の準備